いま思い返せば、その端緒は安倍第一次政権の時でした。
2006年9月26日、当時52歳の若き安倍晋三氏を総理とする第一次安倍内閣が誕生しました。
「美しい国」、「戦後レジームからの脱却」を掲げ、道徳心、公共の精神、愛国心の条文を盛り込んだ基本法教育基本法改正、防衛庁の防衛省への昇格、憲法改正を睨んだ国民投票法の制定など積極的に自らの信条をカタチにしていった安倍総理。しかし性急な改革は、敵を産んでしまいました。
急激な変化を嫌う官僚、当時からサヨク面を見せていたマスコミがタッグを組んで安倍政権への総攻撃をはじめたのです。「何とか還元水」で自殺に追い込まれた松岡大臣、絆創膏を貼ってきただけで辞任に追い込まれた赤城大臣、来る日も来る日もマスコミの政権叩きが続きました。
とどめは「消えた年金」です。社会保険庁の怠慢が全ての原因でしたが、安倍政権が終始言い訳的な発言をせざるを得ない状況に追い込まれていきます。そして、このマスコミの印象操作通り、2007年夏の参議院選に自民党は大敗、体調を悪くされた安倍総理が退陣するのです。2007年9月26日でした。
この時、体調悪化を「お腹が痛くて辞めた」など揶揄したマスコミの品の無さに辟易したことを付け加えておきます。
安倍総理は、マスコミの執拗な攻撃と自身の体調悪化により撤退を余儀なくされました。しかしこの経験は、第二次安倍内閣において確実に活きています。特にマスコミ対策、官僚対策にそれを見て取ることができます。
一方で、政権を倒すという成功体験に味をしめたマスコミと野党は、ここから増長していくのです。